2002/9/1

鎌倉の窓

 

海蔵寺山門

海蔵寺山門

 扇谷山海蔵寺は、鎌倉の扇ケ谷の奥にある臨済宗建長寺派の古刹です。もとは真言宗の寺があった跡に、建長5年(1253)宗尊親王の命で七堂伽藍が再建され、その後元弘3年(1333)の鎌倉幕府滅亡の折りに焼けました。

 応永元年(1394)4月に鎌倉御所足利氏満の命で上杉氏定が再建し、源翁禅師(心昭空外)を開山に招いて海蔵禅寺として今日に至っています。源翁禅師は謡曲「殺生石」の殺生石伝説で有名で、禅師が殺生石を砕いたことから、大きな金槌を「ゲンノウ」と呼ぶようになったといわれます。

 秋には萩が綺麗に咲き、紅葉で有名ですが、その他にも山野草が多く、花の寺として知られています。

 

海蔵寺本堂

海蔵寺本堂

 境内にはサルスベリや芙蓉、桔梗などの季節の花が絶えることなく咲いています。谷の奥まったところにあるために静かで、鎌倉でも有数の趣のある古刹です。

 本堂は龍護殿と称して、大正12年(1923)の震災で倒壊しましたが、2年後に再建されました。中には狩野探信の雲龍・山水図と、藤原義信の牡丹唐獅子図があります。本堂裏手には心字池を中心にした禅宗庭園がありますが、残念ながら非公開です。

 

底脱ノ井

底脱ノ井

 海蔵寺山門の脇にある遺跡で鎌倉十井(じゅっせい)の一つとされ、安達泰盛の娘で金沢顕時の室になった千代能がここに水を汲みに来たときに、水桶の底が抜けたために「千代能がいただく桶の 底脱けて 水たまらねば 月もやどらじ」と詠んで、井戸の底ではなく、心の底が抜けて,わだかまりが解け、悟りが開けたという投機(解脱)の歌から底脱ノ井(そこぬけのい)と呼ばれています。その後に千代能は尼になって無著禅尼と名乗りました。

 

十六井戸

十六井戸

 海蔵寺の南に十六井戸と呼ばれて、清水が湧き出している岩屋があります。岩窟の正面に石造の観世音菩薩を祀り、その下に弘法大師像を安置してあり、床には径70センチ、深さ4,50センチくらいの穴が16あって、清水をたたえています。

 金剛功徳水と伝えられ、弘法大師の伝説がありますが、鎌倉時代の墓であった「やぐら」の底からから清水が湧き出したものという説などがあります。

 

海蔵寺仏殿

海蔵寺仏殿

 本堂の左手には仏殿(薬師堂)があって、浄智寺から移築されたものです。本尊の薬師如来は啼薬師(なきやくし)、児護薬師(こもりやくし)とも呼ばれ、源翁禅師がある夜、赤ん坊の泣き声をたどって裏山に行くと、古ぼけた墓があって、そこから金色の光が漏れていて、あたりには芳香が漂っていたので掘ってみると、薬師如来の顔が出て来たそうです。それを胎内に納めて、新しく薬師如来像を造ったと伝えるもので、61年ごとのご開帳とされています。

 

道元禅師顕彰碑

道元禅師顕彰碑

 平成14年3月に曹洞宗開祖道元禅師の750回大遠忌を記念して、鶴岡八幡宮西隣に鎌倉御行化顕彰碑が建てられました。

  道元禅師は宝治元年(1247)8月に、波多野義重らの招きに応じて鎌倉を訪れ、半年ほど滞在をして、その間に三代将軍源実朝の供養や、執権北条時頼などに法談をしました。時頼は禅師から菩薩戒を受け、さらに一寺を建立して開山に迎えたいと申し出ましたが固辞されたと伝えられます。禅師が48才の時になるようです。

 「只管打座(しかんたざ)」と彫られています。

 

鶴岡八幡宮御本殿

鶴岡八幡宮御本殿

 早朝の鶴岡八幡宮御本殿内陣。日中は参拝や観光の人でここは沢山の人で埋まります。これから朝の祝詞が奏上され、御日供講(おにっくこう)と言って、毎朝のお供えを供える信者さんのお詣りがあります。

 

丸山稲荷社

丸山稲荷社

 鶴岡八幡宮の本殿の西側小丘上に祀られている稲荷社です。建久2年(1191)の八幡宮本殿造営の時に、場所を譲ってここに移った地主神だと伝えられています。

 この社殿は、応永5年(1398)に再建された源実朝を祀っていた柳営社の古材を用いて、明治19年(1886)に造営されたもので、関東における本格的な和様建築だとされています。

 

丸山稲荷社の丘

丸山稲荷社の丘

 鶴岡八幡宮を造営するにあたっては、山腹のかなりを削って本宮を建てたようですが、この丘の部分だけは地主神の座であるとして残されたようで、鎌倉の原初の姿が遺されています。

 御祭神は倉稲魂神で例祭は4月9日とされています。また2月には初午祭が執り行われ、11月8日には火焚祭が執行されて、鎌倉神楽が奉奏されます。

 

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