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御祭神は後醍醐天皇の皇子で、建武中興に功績があったものの、建武二年(1335)七月二十三日に幽閉されていた鎌倉の東光寺で非業の最期を遂げたとされる、大塔宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう)です。明治二年二月に明治天皇の勅命によって、東光寺跡とされる地に創建されました。護良親王は天台座主でしたが、元弘の乱が起きると父天皇をたすけて熊野・吉野に転戦しながら諸国の勤王武士に令旨を発し、楠木正成とともに官軍勝利の先駆けになりました。 |
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鎌倉宮の本殿裏に護良親王が、建武元年十一月から翌年の七月二十三日までの九ヶ月間のあいだ、幽閉されていたと伝えられる土牢があります。親王は征夷大将軍になりましたが、武家の棟梁である足利尊氏などと軋轢が生じ、ついには勅勘を蒙り鎌倉の足利直義のもとで幽閉されました。その後、鎌倉幕府の残党の北条時行が鎌倉に攻め込み、遁走を余儀なくされた直義が後難を恐れて、家臣の淵辺義博に命じて親王の首を落としたとされます。しかし実際に幽閉をされていたところは土の塗籠牢で、土牢ではありません。 |
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滑川(なめりかわ)に架かる東勝寺橋は、青砥藤綱の旧蹟で知られています。青砥藤綱は鎌倉幕府の引付(ひきつけ)と言う所領関係の裁判を担当する裕福な大名でした。ある夜に藤綱が急に出仕をする途中で、火打ち袋に入れていた銭十文を誤ってこの橋から滑川に落としてしまいました。藤綱は人を走らせ銭五十文で松明を買わせて川を照らし、ついに川底から落とした十文を探し出しました。これを聞いた人々が「十文の銭を求めるために、五十文の松明を点したのでは小利多損だ」と笑うと、藤綱は「あなた達は目先のことしか考えない愚かな人たちだ。銭十文は今探さなければ永久に無くなっただろう。松明を買った五十文は商家の手に渡って失われたものではない。我が損は商人の利になったわけで、彼の五十文と探した十文は少しも減らず、これこそ天下の利というものだ」と説いたので、笑った人々は感服したと言うことです。 |
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鎌倉の北西部に笛田と言う里があり、その高台に仏行寺という日蓮宗の寺があります。この寺には鎌倉時代の武将で、義仲追討の時には佐々木高綱と宇治川の先陣を争い、平家追討にも功があった梶原源太景季(カジワラゲンタカゲスエ)の哀話が伝えられています。頼朝の死後に父の景時が、その権勢欲から御家人達の弾劾を受けて父子共に失脚し、加えて謀反を企てて駿河で討ち取られてしまいました。 |
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| 仏行寺の裏山の頂上に、梶原源太景季の片腕が埋められているされる「源太塚」があります。このように円形に石を積み上げ、土を盛って芝生を貼った直径が5bほどのものです。市内には梶原という地名もあり、ここから少し離れた深沢小学校の裏には、一族の墓とされる四基の五輪塔がありますが、定かなことはわかりません。 |
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鎌倉五山の第五位とされた浄妙寺は、源頼朝の重臣だった足利義兼が、文治4年(1188)に退耕行勇(タイコウギョウユウ)を開山として建立した極楽寺と言う真言宗の寺でした。その後に建長寺開山蘭渓道隆の弟子の月峯了然(ゲッポウリョウネン)が住職になって臨済宗に改められ、寺名も浄妙寺にかわりましたが、時期については1257年から1288年の間と諸説があります。現在、千葉県安房郡の日本寺にある鐘は、もとはここ浄妙寺にあったものとされます。 退耕行勇もはじめは真言密教を学んでいましたが、栄西の門下に入り臨済禅の高僧になって、頼朝や政子、実朝などが帰依しました。 |
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山号を稲荷山(トウカサン)と言いますのは、裏山に鎮座している鎌足稲荷神社に由来しています。それは、藤原鎌足が鹿島神宮に参詣する途中に相模国由比の里で、夢に現れた老人から「これをこの地に埋めれば天下は善く治まる」と、鎌槍を授けられ、白狐に案内されるままにそれをこの山に埋め、堂を建てたとする伝説があります。鎌足稲荷が鎌倉の地名の由来だと言う説もあります。山上には山桜が咲いていました。 境内は良く整備がされていて、「喜泉庵」という枯山水の庭を持つ茶室や回遊式の庭園が造られています。 |
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| 浄妙寺本堂の裏手に足利貞氏の墓と伝えられる室町時代明徳三年(1392)銘の宝篋印塔があります。貞氏は足利初代将軍の尊氏や弟の直義の父であり、家時の子ですが武将としてのめざましい活躍は伝えられていません。浄妙寺の中興開基とされています。ここから北西の所には、直義が幽閉されて死んだとされる大休寺があったとされますが、今は何も残っていません。 |
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| 今年は全国的に桜の開花が早く、鎌倉も3月15日にはチラホラと花が見られるようになり、彼岸の入りには、早い樹は二分から三分咲きになりました。 |