2001/11/30

鎌倉の窓

 

大船観音

大船観音

 鎌倉の玄関口にあたる大船にある大観音像です。1929年(昭和4年)に、護国大観音建立会が組織されて着工し、1934年には像の輪郭が出来上がりましたが戦争で中断され、永く未完のままになっていましたが、1954年に曹洞宗高階瓏仙管長が中心になり、五島慶太氏らの財界人が協力して大船観音協会が設立され、1960年(昭和35年)に完成されました。
 それから数えますと、2002年は42歳の厄年の観音様になります。現在は曹洞宗大船観音寺になっています。この観音様は、最初は立像の予定でしたが地質が弱いので座像に変更され、さらに胸像スタイルになりました。
  近年は参拝者の3割がアジアの仏教信仰者で占められているそうです。

 

常楽寺山門

常楽寺山門

 大船の常楽寺は山号を栗船山(ぞくせんざん)といいますが、このアワフネが大船の地名の由来と伝えられています。鎌倉幕府三代執権の北条泰時が妻の母の供養に粟船御堂を建てたのが始まりとされ、本堂背後に泰時の墓が、大応国師の墓とともに遺されています。
 蘭渓道隆が建長寺を開く五年前に、この寺で宋の禅を広めたとされ「常楽 は建長の根本なり」といわれます。大応国師は蘭渓道隆の高弟のひとりで博多の崇福寺に移り、北九州に臨済禅をひろめた高僧です。
  山門の大銀杏の左後方のはるか山の上にも色づいた銀杏が望めますが、その下に木曽義高の墓があります。

 

木曽義高の墓

木曽義高の墓

  木曽志水冠者義高は、木曽義仲の長男です。義仲が挙兵後に源氏の嫡流である鎌倉の頼朝に、その長女大姫の許嫁で養子として送られてきましたが、実際には人質です。義高は12歳位で大姫は7歳程であった考えられていますが、二人は仲睦まじく過ごしていました。
 結局は義仲は討たれ、義高は頼朝に疎まれるようになり大姫もそれを察して、父頼朝に懇願しましたが聞き入れられないと知り、遂に隙を見て自分の衣装を義高に着せて女装させ逃がしました。しかしこれが頼朝にとっては義高を切る口実を与えることになって、入間川の河原で首をはねられてしまいました。
  その首が鎌倉に送られ、首実検の後に常楽寺の西南の田圃に葬られました。人々はそこを「木曽免」と呼んでいましたが、1680年(延宝8年)頃に青磁の人骨の入った壺が見つかり、常楽寺の裏山に移され塚が造られ、木曽清水冠者義高の墓として祀られています。

 

岩船地蔵堂

岩船地蔵堂

 扇ガ谷の亀ヶ谷辻と呼ばれるところに古くから地蔵堂が祀られていて、堂内には頼朝の長女大姫の守り本尊と伝えられる地蔵菩薩が安置されています。このほど造り替えられ、11月23日に落慶法要がいとなまれました。
 大姫は、頼朝が伊豆に流されている時に政子との間に生まれ、5,6歳の頃に木曽義仲の長男の志水義高の許嫁になりました。しかし義高が父頼朝に切られ悲嘆のあまりに病身になり、一生を鬱病で過ごしました。
 年頃になって、両親も公家の一条高能との縁組みをすすめましたが、自分はあくまでも義高の妻であると言い張り、死を賭して拒絶しました。その後、後鳥羽帝の後宮の話も拒否し、建久8年(1197)7月14日に二十歳位で亡くなりました。

 

岩船地蔵菩薩

岩船地蔵菩薩

 岩船地蔵堂に祀られている地蔵菩薩像で、胎内には「大日本国相陽(模?)鎌倉扇谷村岩船之地蔵菩薩者當時大将軍右大臣頼朝公息女之守本尊也」と記されています。この像は元禄頃の作とされ、うしろ奥に鎌倉期の石造地蔵菩薩像が安置されています。
 史書に大姫がこの辺りに葬られ、御家人達が参列した記述が残されていますが、大姫が慕った義高がアワフネの常楽寺に祀られ、大姫の地蔵尊がここイワフネに祀られていることは、後世の人々が二人の悲恋を想ってのことでしょうか。

 

晩秋の英勝寺

晩秋の英勝寺

 岩船地蔵堂から鎌倉駅に向かって歩き、踏切りを越えたところに鎌倉唯一の尼寺英勝寺があります。開基の英勝院は太田道灌から数えて四代の孫康資の娘です。お勝の方と呼ばれて徳川家康に仕え、水戸家初代徳川頼房の養母をつとめ、家康の死後に出家をして英勝院と号しました。
  家光から祖先の太田道灌の土地だったこの地を賜り、水戸家初代の息女・玉峯清因を開山として英勝寺を建てたものです。英勝院の死後に光圀によって祀堂が建てられ、その光圀も訪れています。この写真の左手灯籠の奥に祀堂があります。このために水戸家ゆかりの寺として、代々水戸家の姫君が住職をつとめました。
  晩秋で木々の葉が落ちていますので、本堂がよく望めます。一時、人手に渡っていた山門が最近買い戻され、目下再建のための努力がなされています。

 

壽福寺総門

壽福寺総門

 鎌倉五山第三位の壽福寺は、北条政子が正治2年(1200)に栄西を開山に招いて建立しました。この地は、奥州討伐に向かう源義家が勝利を祈願し、義朝の屋敷があったとされる源家ゆかりの地であり、頼朝が鎌倉入りしたときに館・幕府を建てようとしたところでもあります。
 門から真っ直ぐに石畳が続き、禅の雰囲気を漂わせています。裏山の裾一帯が墓地になっていて、北条政子や源実朝のものと伝えられる五輪塔や、陸奥宗光や高浜虚子、大佛次郎など墓があります。

 

壽福寺仏殿

壽福寺仏殿

 壽福寺の仏殿は拝観が出来ません。「籠釈迦」といわれる高さ282センチの宝冠釈迦如来像がご本尊で、文殊・普賢菩薩像や源実朝像が祀られています。
 栄西は宋から我が国に茶の苗を持ち帰り、茶を普及させたことでも知られていて、茶の効能などを記し、将軍実朝に献上した「喫茶養生記」が寺宝として伝えられています。    

 

北条政子の墓

北条政子の墓

 壽福寺の裏山裾一帯は墓地になっていて、沢山のやぐら跡が残されています。そのなかに北条政子の墓と伝えられる五輪塔と、三代将軍源実朝のものとされる五輪塔があります。現在は、やぐらと呼ばれる岩肌をくり抜いた部屋と地面が平らになっていますが、以前はもっと地面が低い位置にあったと考えられます。
  このやぐらが造られた当時は、前面には立派な扉が設けられて、中は漆喰や金箔で飾られていたでしょうが、いまは秋の陽射しが静かに差し込んでいます。写真の右手の先に、実朝の墓とされる五輪塔が納められているやぐらがあります。

 

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