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ぼたもち寺常栄寺 |
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文永8年(1271)9月、日蓮は幕府に捕らえられ龍ノ口の刑場に送られました。世に龍ノ口の法難と言われるものですが、その時、ここ居た桟敷の尼がゴマのぼたもちをつくって日蓮に進めたことから、俗に「ぼたもち寺」と呼ばれています。同様の話が龍口寺輪番八ケ寺の一つ法源寺にも伝わっていて、そちらは老婆が差し出した握り飯が転げて、砂にまみれ、ゴマをまぶしたぼたもちのようになった、と言われます。 |
日蓮乞水 |
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建長5年(1253)5月、日蓮は安房から横須賀を経て鎌倉に入り法華信仰弘通をはじめましたが、その折りの日蓮の伝説に因む井戸跡です。手前に見える竹の蓋がその井戸で、鎌倉の五名水もいまは枯れてしまって水はありません。 |
明月院桂橋 |
| 明月院は「あじさい寺」として有名です。現在の明月院の地は鎌倉幕府5代執権の北条時頼(時宗父)が、その邸宅の傍らに建てた最明寺の跡と伝えられます。最明寺はその後すぐに廃寺になりましたが、時宗が禅興寺として再興し、その塔
頭の一つが今の明月院になりました。 総門の脇の茶々橋と呼ばれる所から、白木で作られている桂橋を見たところです。手前の石の小橋を左手に真っ直ぐ行きますと時宗公の廟所があり、横に宝篋 印塔と五輪塔を組み合わせた墓が伝えられています。 文永元年(1260)7月16日に日蓮が時頼に「立正安国論」を献上したとされます。 |
明月院本堂とあじさい |
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明月院のあじさいは、現在は全て青色の姫あじさいに限って栽培しているそうで、色とりどりのあじさいと言う風情は味わえません。この辺りは明月谷という谷間ですから自然と湿気が多く、そのためにアジサイには適していると言えます。明月院の開基は上杉憲方で、南北朝時代の関東管領、上野・武蔵・伊豆などの守護でした。 |
明月院本堂より後庭園 |
| 明月院は谷間に在るお寺ですから奥が深く、本堂の後にも庭園が造られています。手前に池が造られ、刈り込みがあって芝生、その奥に花菖蒲が植えられています。強く明るい陽射しより、早朝の朝もやや煙るような小雨が似合う庭園です。また、秋の紅葉のころには別の装いが味わえます。 |
建長寺三門 |
| 鎌倉五山の筆頭とされる建長寺は、正式には巨福山建長興国禅寺(こふくさんけんちょうこうこくぜんじ)といいます。建長5年(1253)11月に、北条時頼が宋から招いた蘭渓道隆(大覚禅師)を開山として開いた我が国最初の禅寺とされます。もと、この地は地獄谷とよばれて罪人の処刑場であり、葬地であった言われています。その時にこの地に心平寺と呼ばれた仏堂があって、その本尊の地蔵菩薩が現在も仏殿脇に千体地蔵に囲まれて安置されています。 三門は正確には涅槃成道のための空門・無相門・無作門の三解脱門の略称とされます。現在の三門は安永4年(1775)の再建です。正面大扁額は後深草天皇の宸筆と伝えますが、本寺11世で宋僧の大通禅師子曇の筆とされます。 この三門には幾つかの伝説があって、その一つに万拙和尚と狸の話があります。万拙和尚が三門の再建のために一生懸命に托鉢をしている姿に狸が感じて、建長寺の山から出てきては万拙和尚の托鉢姿になりすまし、町に出て米や金をもらい歩き、それが七組にもなったそうです。そして狸はもらってきたものは全て三門が在ったところに置いていったそうです。 |
建長寺唐門と龍王殿 |
| 徳川幕府から下賜された芝増上寺崇源院霊牌所の廟門を、正保4年(1647)に再建したものです。形式的には唐破風屋根漆塗四脚門とされ、桃山期の作風を伝える江戸初期唐門の秀作といわれます。 掃除が行き届いていて、塵一つ落ちていないことを、「建長寺の庭を竹箒で掃いたよう」と形容されていたように、建長寺の境内は掃除が行き届いていることで有名だったのです。これは大覚禅師以来の伝統がきびしく守られていたのでしょう。いまもその伝統は伝えられ守られています。 |
名越の切通し |
| 鎌倉には外から入る道として切り通しと呼ばれる、このような狭い険しい道が七つあって「七切通し」と言われ、外敵の侵入を阻止する要塞になっていました。 この名越の切通しは鎌倉と逗子との境にあって、鎌倉と三浦半島を結ぶ重要な道になっていました。三浦一族は自国との行き来のたびに、何度となくこの切り通しを抜け、その昔、日蓮も安房から横須賀に渡ってきて、ここ鎌倉に入るためにこの切り通しを抜けたのでしょう。 名越の切通しには、このように岩が突き出ているところが二カ所あって、大空洞、小空洞と呼んでいます。これは大空洞です。七切通しとはこの他に朝比奈・小袋坂・亀ケ谷・化粧坂(けわいざか)・大仏坂・極楽寺坂をいいます。 |