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安養院のツツジ |
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鎌倉、大町にある安養院は浄土宗で、正式には祇園山長楽寺安養院と云います。開基は北条政子とされ安養院殿如実妙観大禅定尼の位牌と法体の像が安置され、また境内には政子の墓(供養塔)と云われる重文の宝篋印塔が残されています。これは政子が嘉禄元年(1225)3月に、現在の鎌倉文学館の辺りに頼朝の菩提を弔うために長楽寺という寺を建立したことが、この寺の始まりと伝えられていることによります。 |
安養院のツツジのアーケード |
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安養院はツツジのお寺としても知られていて、門からの境内周囲を、高さが5メートルを超えるほどの大きなツツジが取り巻いています。季節にはそれが一斉に開いて門前の歩道はさながらツツジのアーケードになります。 |
源頼朝の墓 |
| 鶴岡八幡宮の境内を右手に抜けて横浜国大付属小学校の先、現在の清泉小学校の辺りが頼朝屋敷、大倉(蔵)幕府跡と云われています。治承4年(1180)9月には頼朝はこの地に入り、侍所、公文所などを設置して東国支配に乗りだし、建久3年(1192)には征夷大将軍になり鎌倉幕府を開きました。
その地の北の山を大倉山といい、その中腹に頼朝の墓と伝えられる石塔があります。江戸時代の資料によると、昔は1メートルほどの五輪塔であったようですが、安永年間(1779)に薩摩藩主島津重豪によってこのように建て替えられたようです。旧い五輪塔の火輪(笠石)を重ねたものでしたが、数年前にイタズラで壊され二層より上を造り直しました。 この地を頼朝の法華堂跡としますがあまりに狭く、個人的にはこれより東に30メートルほど離れた三浦泰村一族の供養塔がある辺りではないかと感じます。この付近一帯は島津家が持っていて、島津家の祖である忠久公や大江広元公の墓所が泰村一族のヤグラの上部にあります。これは島津忠久は、頼朝が比企能員の妹に生ませた子であるとの言い伝えがあり、薩摩藩24代の島津重豪が整備したもので、最近、鎌倉市に寄贈されます。 |
鎌倉文学館全景 |
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鎌倉文学館は加賀百万石の旧前田侯爵家の鎌倉別邸でした。明治23年頃に第15代前田利嗣氏が長谷のこの地を入手して建て、次代利為氏が昭和11年に渡辺栄治師の設計、竹中工務店の施工で洋風に全面改築したものです。建築用材は塩害に強いチーク材が使われ、ステンドグラスや照明器具にも粋を凝らしています。 戦後はデンマーク公使や佐藤栄作元首相が別荘に借りていましたが、昭和58年に鎌倉市に寄贈され、外観をそのままに残して内部を補修、改装し文学館として一般に公開しています。 |
玄関脇よりの文学館 |
| 三島由紀夫が作品「春の雪」の中で、別荘のモデルとして描いていることでも知られています。半六角形の張り出し窓、半円形欄間の飾り窓などが特徴で、登録有形文化財になっています。中には鎌倉にゆかりの深い文学者の原稿などの資料が展示されて、窓からは町並みを通して由比ヶ浜の海が望めます。 |
バラ園と庭 |
| この地は北条政子が頼朝の菩提を弔うために建立した長楽寺の跡と伝えられます。現在は前庭にバラ園が作られ、色とりどりのバラが訪れる人を魅了しています。広い芝生、生け垣、深い緑・・・そして美しい花々・・・心が癒やされるひとときです。 |
前庭よりの海の眺め |
| 館内からも、前庭からでも鎌倉・長谷の町並みの向こうに由比ヶ浜の海が望めます。 周囲の山からはコジュケイの「チョットコーイ、チョットコイッ」の鳴き声が聞える、のどかな時間を多くの来館者がゆっくりと過ごしています。 |
安部清明(安倍晴明)大神 |
| 横須賀線・北鎌倉駅から建長寺方面に進み、踏切を渡った右側の道端に「安部清明大神」と彫られた自然石碑が建てられています。これは今や陰陽師としてブームの中の安倍晴明のことで、たくさんの散策の人がこの前を通り過ぎますが、気にとめる人はないようです。『新編相模国風土記稿』には安倍晴明が雨乞い祭をした地として、晴明塚が藤沢市宮ノ前にあるとしています。卜占をめぐる抗争で道摩法師に破れた晴明が都落ちをして、この鎌倉近辺に住まいしたとの伝説もあります。 |
これが晴明石 |
| 北鎌倉駅の斜め上の高台に八雲神社があって、その境内にこの石が安置されています。もとこの石は北鎌倉駅から大船方面に行った道の真ん中の埋まっていて、知らずに踏めば足が丈夫になり、知っていて踏むと足を痛めたり病気になったりするといわれ、足を痛めた人は、石を清水で洗い、塩や線香をあげて拝むと治るとされました。道路工事にともない掘り起こされて、現在のこの場所に収められています。 この石を大事にしているために、この付近(山ノ内)では火事がないと信じられていて、毎年4月14日にはお祀りをしていたそうで、大船にある多聞院の所有で、火難・災難よけの神の石といわれたこともあるようです。 |