2001/03/14

鎌倉の窓

 

朝の相模湾

朝の相模湾

 材木座・光明寺の上から稲村ヶ崎と江ノ島、富士山をのぞみます。切り通しは湘南道路を通すために開いたもので、鎌倉時代にはありませんでした。1333年5月の新田義貞軍の鎌倉攻めの時に、この稲村ヶ崎を引き潮に乗じて攻め込んだとされますが、実際には画像の右手の丘陵部分に当時は仏法寺という寺があって、その傍を西から鎌倉に入る稲村路があったようで、新田軍はその寺の占拠に成功し、稲村路から鎌倉に攻め込んだようです。

 

光明寺の山門

光明寺の山門

 光明寺は正式には天照山蓮華院光明寺と言って、関東十八檀林の第一とされます。関東十八檀林とは、徳川家康が浄土宗学問所として芝の増上寺を首席、光明寺を第一、伝通院を第二と言うように、阿弥陀如来の十八願に則って次第に関東各所に定められたものです。この山門はもとは鶴岡八幡宮の表門であったという伝えもあります。額は後花園天皇によるもので、鎌倉現存最大の山門です。

 

円覚寺の三門

円覚寺の三門

 1282年(弘安5年)北条時宗によって建てられ、宋からの渡来僧仏光国師無学祖元を開山に迎えた瑞鹿山円覚興聖禅寺が、いわゆる円覚寺です。総門を入って階段を上がると三門があり、1783年(天明3年)6月の再建と伝えられ、正式には三解脱門と称されます。正面の扁額は伏見上皇によるものです。関東大震災にも大きな被害はなく、質素で古朴な造りは近世建造物の中において名建築と呼ばれています。この三門が夏目漱石の「門」の舞台と間違えられることがありますが、それはこれより右手の塔頭、帰源院の門です。

 

北条時宗公廟・仏日庵

北条時宗公廟・仏日庵

 鎌倉幕府第八代執権北条時宗公の廟所・仏日庵は円覚寺の奥、左側にあります。18歳で執権職について1284年(弘安7年)4月4日34歳で亡くなるまでの16年間は、1274年(文永11年)と1281年(弘安4年)の二度にわたる蒙古・高麗軍の襲来など波乱の時代でした。時宗公の遺体は荼毘をして円覚寺内のこの地に葬られ、その上に廟を建てて法体の御像が安置されたのが仏日庵になります。法名を法光院殿杲公大禅定門(ホウコウインデンコウコウダイセンジョウモン)と言います。また御命日の4日には四日会と呼ばれる茶会の釜がかかります。

 

仏日庵内部

仏日庵内部

 仏日庵の内部正面には法体の時宗公の御像、向かって左に北条貞時公、その左に北条高時公の同じく法体の御像が祀られ、右手には一門の御位牌が祀られています。北条貞時は時宗の嫡男で第九代執権、北条高時は貞時の子で第十四代執権です。正面上部には昭憲皇太后の御歌が掲げられています。

 

東慶寺の梅

東慶寺の梅

 北条時宗夫人は御家人安達義景の娘で、時宗が亡くなりますと落飾、潮音院殿覚山志道となり1285年(弘安8年)息子の北条貞時を開基に東慶寺を開創します。その後、ここは女人救済の駆け込み寺として独特の歴史を歩みます。この右手に松ヶ岡文庫があり、正面の坂の手前を左に階段を上ると覚山尼などの墓所があります。左手の奥は墓所になっていて、多くの作家や文化人などが眠っています。                       正式には松岡山東慶総持禅寺と称し、総持とは達磨大師の弟子総持尼に因み、禅の尼寺の意を込めたものです。明治になって寺法が廃止され、5年には円覚寺の末寺になり、35年に院代順荘尼が亡くなってから男僧の寺になりました。

 

覚山尼の墓

覚山尼の墓

 東慶寺開山の潮音院殿覚山志道は夫の時宗と同じく無学祖元に師事して、禅に親しみました。無学の法語「仏性覚体 妙明円満 不問女人 不問男人」などに基づく女人救済の意識があったようです。

 

天秀法泰尼の墓

天秀法泰尼の墓

 天秀法泰尼は東慶寺第二十世にあたり、豊臣秀頼の息女です。1615年(元和元年)に大阪城が落ちて当時七歳の幼女は捕らえられ、天樹院(千姫)の養女になった後に、家康によって東慶寺に入れられました。天秀尼が入って将軍家とも特別な縁が出来たことから、寺の権勢は大いに振るい、大名の行列も道を譲ったとされます。

 

湘南の夕暮れと富士山

湘南の夕暮れと富士山

 三月は太陽の沈む位置がだんだんと富士山に近くなってきます。春はお彼岸から一週間くらいの後に、太陽が富士山の頂上に沈みます。秋はお彼岸の一週間くらい前が目安です。かすかに茅ヶ崎の烏帽子岩の影が海の中に見えています。

戻る  総目次  TOP