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鶴岡八幡宮の舞殿と隠れ銀杏 |
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鎌倉まつりには、舞殿で「靜の舞」が奉納され、人々は文治2年(1186)4月8日に頼朝の命で舞を舞った静のことを思い浮かべます。 よしの山 峰の白雪踏みわけて いりにし人の跡ぞ 恋しき 静はその後に一人の男児を生みますが、頼朝はその嬰児が弟義経の子であるために奪い取り、頸をひねって由比ヶ浜に捨てさせたと云われ、静とその母は都に帰され、髪を落としたと伝えられます。ときに静二十歳、文治
3年の春のことでした。 |
鶴岡八幡宮楼門 |
| 鶴岡八幡宮は康平6年(1063)に源頼義・義家父子が鎌倉に居を構え、石清水八幡宮を祀ったことが始とされ、その後源頼朝が鎌倉に入り、建長2年(1191)に現在の姿に構築して、改めて石清水八幡宮より神霊を迎えました。 |
安国論寺・御小庵 |
| 妙法華経山安国論寺は日蓮上人の松葉ケ谷霊跡と伝えられ、この場所に庵を結び、法華経の布教につとめました。この御小庵は尾張徳川家の寄進によって元禄年間の建立とされ、中には立正 安国論執筆中の上人の姿を、日朗上人が刻んだと伝えられる像が祀られています。前にある妙法桜はお杖桜とも云われ、上人が房州から持ってきた桜の杖が根付いたものと云われ、さかさ木で直立には育たず、横に広がり八重でメシベが一本杖の形をして外に飛び出している珍しいものです。 |
御法窟 |
| 御小庵の奥に連なっている岩屋で、日蓮上人が「立正安国論」起草した御法窟と伝えられます。この立正安国論は文応元年(1260)7月16日に、前執権北条時頼に建白されました。 |
南面窟 |
| 文応元年(1260)8月27日、日蓮上人はその四大法難と呼ばれるうちの最初の一つ、松葉ケ谷焼打ちに遭い、御小庵よりこの南面窟に一時避難をしたとされます。一度崩落しましたが、近年写真のように修復されました。上人はその後、ここから白猿(山王大権現)に導かれて、お猿畠に難を逃れました。 |
猿畠山奥の院 |
| 猿畠山法性寺は、東京の池上本門寺と鎌倉の比企谷妙本寺(長栄・長興両山)の奥の院とされ、右の建物は日朗上人の廟所になっています。 |
猿畠山頂上 |
| 日蓮上人を松葉ケ谷焼打ちより救いだし、この地に導いたとされる白猿・山王大権現が祀られています。 |
猿畠山頂上からの眺望 |
| 写真の左手の真っ直ぐ先が、日蓮上人の立教開宗の地、房州清澄山の方向になります。その昔、日蓮上人もこの岩の上に立って朝日に向い、声高く御題目を唱えられたことでしょう。 下に見える屋根は日朗上人の廟所です。 |
御仏供杉 |
| 石川県石川郡吉野谷村吉野春にある国天然記念物「御仏供杉」で、幹の太さ10メートル、樹高18メートルあります。仏飯を盛ったような姿から御仏供杉(おぼくすぎ)と呼ばれ、この地
は曹洞宗の大智禅師が地頭の結城氏に招かれて開いた祇陀寺の跡と云われます。禅師が「この杖が根付いたら、ここに曹洞禅が栄えるだろう」と言って、持っていた杖を地中に差したものが根付いたと云う伝説があります。
日蓮上人のお杖桜と云い、この御仏供杉と云い、また各地に残る弘法大師などの杖の伝説と云い、高僧には杖が一つのキー・ワードになっているようです。 |