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鎌倉山から富士山と湘南を見る |
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鎌倉山から七里ケ浜に抜ける道から湘南が一望できます。手前が鎌倉山住宅地、その先が茅ヶ崎、大磯、小田原、さらに箱根、伊豆の山々・・ そして富士山です。 これから若葉の季節になりますと、刻々と微妙な色彩の変化を見せて、それは美しい景色があらわれます。 日没の頃には美しいシルエットが楽しめ、夏の夜は江ノ島をはじめ、遠く伊豆半島の花火が望めます。 |
春の相模湾。遠くに伊豆大島が望めます。 |
浄智寺の楼門 |
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鎌倉五山の第四位、浄智寺の楼門です。執権北条 時頼の三男、宗政が弘安4年(1281年)に亡くなり、その菩提のために宗政夫人が起こした寺です。 室町時代にはたくさんの御堂が建ち並び、塔頭も十以上を 数える程の大きな寺だったそうですが、北条氏が滅び、戦国時代を経て江戸時代になると、鎌倉も農漁村の一寒村になってさびれ、寺もその繁栄ぶりを失いました。 更には大正12年(1923年)の関東大震災では建物の ほとんどが倒潰してしまい、今ある建物の大部分はその後に建てられた物です。 この門を潜って右手には、室町時代の作と伝えられる 三世仏座像が祀られている曇華殿があります。曇華とは 優曇華(うどんげ)の略で、インド地方にある三千年に一度 花が咲くと云われる樹のことです。この花が咲くときに仏が この世に出現すると伝えられています。 ここにお詣りすると 三千年に一度の幸運に恵まれるかも知れません。 |
新緑の妙本寺山門 |
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長興山妙本寺。長興とは比企能員(よしかず)の、妙法とは その夫人の法名と伝えられます。日蓮宗で、池上の本門寺と 両山兼帯と唱えられて、住持は両寺を兼帯する例でした。はじめの頃は住持はこの妙本寺に居ましたが、徳川時代に入ると 本門寺に居る例になり、昭和23年に分離されるまで続きました。 祖師堂の日蓮像は、日蓮在世中に日法が造ったと伝えられ、身延、池上本門寺とこの像は、同じ一木で造られた天下三体の像とされています。 この地は比企ケ谷(ひきがやつ)と呼ばれ、比企一族が滅亡した場所とされ、滅亡の折りに逃れられた当時二歳の能員の末子が成人して学者になり、比企大学三郎能本と名乗り時の順徳天皇に仕えました。その後姪のよしこが将軍藤原頼経の人になったことから許されて鎌倉に帰り、日蓮の弟子になり この父の屋敷跡に御堂を建てたのが起こりとされます。 山門を入った右手に二代将軍源頼家の子、一幡(いちまん)の袖塚や比企一族の墓などがあります。 |
比企一族の墓 |
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比企一族の滅亡が、北条氏の権勢と後の鎌倉幕府の性格を決定づけました。 比企能員は頼朝の側近として信 任があつく、上野・信濃の守護を勤め、妻は頼家の乳母になり、娘は将軍頼家の側室若狭局となって一幡を生むなど、頼朝没後の権勢は北条氏を凌ぐほどでした。 比企氏の台頭 に危機感を持った北条時政は、建仁3(1203)年8月に頼家が病に倒れると、突然に関東の地頭職と日本国総守護職を一幡に、関西の地頭職を実朝(頼家弟)に譲る決定を下し、これに驚いた能員が、9月に病の癒えた頼家に時政の専横を訴え、頼家も時政追討を能員に命じました。 これを知った北条政子が父の時政に知らせ、時政は仏事にかこつけて能員を誘い出し、自身の名越亭で殺害しました。 これを知った能員の息子達は一幡の館(妙本寺付近)に籠もりましたが、政子の命を受けた追討軍に火を放たれて、一幡下の一族が滅亡し、頼家は政子に出家させられて伊豆 修禅寺に幽閉され、その後に殺されました。 |
妙本寺のシャガ |
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妙本寺の境内には、桜や八重桜、海棠などの節の花がたくさん咲きます。 |