2000/4/25

 

 

比企一族の墓

比企一族の墓

 比企一族の滅亡が、北条氏の権勢と後の鎌倉幕府の性格を決定づけました。

比企能員は頼朝の側近として信 任があつく、上野・信濃の守護を勤め、妻は頼家の乳母になり、娘は将軍頼家の側室若狭局となって一幡を生むなど、頼朝没後の権勢は北条氏を凌ぐほどでした。

比企氏の台頭 に危機感を持った北条時政は、建仁3(1203)年8月に頼家が病に倒れると、突然に関東の地頭職と日本国総守護職を一幡に、関西の地頭職を実朝(頼家弟)に譲る決定を下し、これに驚いた能員が、9月に病の癒えた頼家に時政の専横を訴え、頼家も時政追討を能員に命じました。

これを知った北条政子が父の時政に知らせ、時政は仏事にかこつけて能員を誘い出し、自身の名越亭で殺害しました。

これを知った能員の息子達は一幡の館(妙本寺付近)に籠もりましたが、政子の命を受けた追討軍に火を放たれて、一幡下の一族が滅亡し、頼家は政子に出家させられて伊豆 修禅寺に幽閉され、その後に殺されました。

 

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