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■菅原道真公の子供と墓 最新発言から読む

577 名前:鎌倉とんぼ :01/07/31(火) 13:34 (菅原道真公の子供と墓)→ Home
 少し前に「名墓録」に菅原道真が入っていないと、或る神道
人からご指摘を頂きました。「名墓録」を作成しはじめた頃に
は、「墓」の概念をどうしようかと正直迷いました。遺骨なり
遺骸が埋葬されている処、もしくはその伝承地及び寺院境内と
漠然と線引きをしましたので、神社関係は外していました。そ
うしないと、東郷神社や乃木神社、鎌倉宮なども範疇に入って
きてしまうことになると考えたからです。

 資料の整理が進むうちにそれらのこともケース・バイ・ケー
スで載せたり外したりになりましたが、太宰府天満宮は載せ忘
れていました。ところが、道真公の遺骨は太宰府だけではなく、
茨城県水海道市の大生郷天満宮にあり、鹿児島の藤川天神にも
塚が残されているとのご指摘でした。

 調べると成る程そのような伝承でした。ところがその過程で
面白いことも判りました。大生郷天満宮の伝承では道真公の【
三男 景行】が常陸の介に任官して、父君道真公の御遺骨をお
祀りしたことが創建としていますが、太宰府天満宮にある摂社
神子神社では、景行は【二男】として祀られております。

 また、いちりんさんが散歩でよく足を運ばれる国立の谷保天
神では、【三男 道武】の創建と伝えています。史料によると
道真公は23人の御子が居られたようで、長男、高親は土佐に、
二男、景行は越後に、三男、兼茂は遠江に、四男淳茂は播磨に
それぞれ配流になっています。道武なる人は出てきません。

 谷保天神では、道武とは或る人が特に名を秘するための仮の
名を使ったために、史料には出てこないと話して居られるよう
です。

 天神さまの菅原道真には唐に渡ったと言うことに始まって、
沢山の伝説がありますので、公をお祀りする天満宮、天神社に
も数々の伝承伝説がついてきます。それにしても学者としての
道真公に、23人もの御子というのも意外ではあります。当時と
しても天皇は別にして、多い方ではないのかと思います。

789 名前:Ku :02/08/04(日) 21:28 (無題) 
初めまして、道真公の子で遠江に配流になったとされている方の事をご存知の方、史料等書籍名も含めてお教え願えないでしょうか、宜しくお願いいたします。

790 名前:鎌倉とんぼ :02/08/05(月) 06:19 (ごめんなさい。) 
 菅原兼茂公のことはGoogleで検索しても、具体的な要領を得な
いものが一つ引っかかる程度です。

 道真公に関することは、一応は太宰府に問い合わせられては如
何でしょうか。郷土史家を含めての研究のネットワークがあるの
ではないでしょうか。私個人としては、非力でお役に立てそうも
ありません。

791 名前:いちりん :02/08/05(月) 09:17 (参考までに、谷保天) 
わが家の近くに、谷保天満宮があります。
そこは、菅原兼茂公ではありませんが、三男の三郎道武に由来する神社です。

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延喜元年(901)右大臣菅原道真は、醍醐天皇の怒りに触れ、太宰府に追放になりました。
道真の三男、三郎道武は谷保に流されました。
道武は父をしのび、父の面影を木像にしました。(これが谷保天神の御神体といわれています)

時は過ぎ、江戸゛時代のことです。
谷保の天神様は、飢饉などがあって寄進・お賽銭も少なく修理もままならなくなりました。
そこで宮司と神社の氏子たちは相談をして、目白で御神体の公開をすることにしました。

秋の10月(神無月)、御神体は目白で公開され、たくさんのお賽銭が集まりました。
そこに狂歌師として有名な蜀山人こと大田南畝が通りかかりました。

「神ならば 出雲の国に行くべきに
        目白で開帳 やぼのてんじん」

(10月(神無月)に、神様なら出雲大社に行くべきなのに、目白なんかでご開帳(公開)しているなんて、やぼな天神様だこと)

と狂歌を作りました。谷保の地名を野暮にかけたのです。
この狂歌がもとになって、「やぼてん」という言葉が生まれたそうです。 

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以下のサイトから、そのまま転載しました。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Keyaki/9511/minnwa1.htm

792 名前:いちりん :02/08/05(月) 09:20 (遠江if) 
>>789
> >初めまして、道真公の子で遠江に配流になったとされている方の事をご存知の方、史料等書籍名も含めてお教え願えないでしょうか、宜しくお願いいたします。

遠江というと、いまの浜松ですよね。
浜松には、菅原町という町名がありますので、なにか関係があるかもしれませんですね。

793 名前:いちりん :02/08/05(月) 09:29 (Re: 遠江if) 
>>792
> >>>789
> > >初めまして、道真公の子で遠江に配流になったとされている方の事をご存知の方、史料等書籍名も含めてお教え願えないでしょうか、宜しくお願いいたします。
>
> 遠江というと、いまの浜松ですよね。
> 浜松には、菅原町という町名がありますので、なにか関係があるかもしれませんですね。

そおいえば、天神町という町名もありました。
けど、そんな地名は、どこにでもあるか。。

794 名前:Ku :02/08/05(月) 11:57 (無題) 
今日は、   鎌倉とんぼ様、いちりん様、   早速のお答えありがとうございました、今後とも宜しくどうぞ。    

1287 名前:t-kimura :06/01/25(水) 20:52 (無題) 
私の住んでいる 静岡県榛原郡川根本町千頭(昔 遠州榛原郡千頭村郷平)に、「泉頭四郎兵衛」の石碑があります。この人物は、管原道真の三男(系図からだと十何男?)兼茂の子宗臣の子(道真公のひ孫)「泉樹」と言われています。道真公の子兼茂が遠江に配流されていることをこのサイト知り、この人物の話しが事実なのか もっと深く知りたく思います。ご存知の方がおりましたら,お教え下さい。

1292 名前:鎌倉とんぼ :06/02/02(木) 19:57 (Re: 無題) 
t-kimuraさん、はじめまして。

> >私の住んでいる 静岡県榛原郡川根本町千頭(昔 遠州榛原郡千頭村郷平)に、「泉頭四郎兵衛」の石碑があります。この人物は、管原道真の三男(系図からだと十何男?)兼茂の子宗臣の子(道真公のひ孫)

 御地は、最近 市町村合併があったようですね。
「泉頭四郎兵衛」 せんずしろべえ と言われているようですが、
多分「しろうひょうえ」などと名乗っておられたのではないでしょうか。
徳川家康の甲斐侵攻の折りには、兵糧を出して朱印状の恩賞を頂い
ておられたと知りました。

名墓録に加えさせて頂きました。ありがとうございました。

1354 名前:t-kimura :06/03/19(日) 20:45 (無題) 
鎌倉とんぼ 様
No1287 t-kimura(06/01/25)で質問させていただきましたところ、お答をいただきありがとうございました。そして、名墓録に加えていただき、恐縮をしております。
 お手数ですが、今一度、お尋ねいたします。
 鎌倉とんぼ様のNo577(01/07/31)の中に、道真公の三男 兼茂は遠江に配流された。とあります史料名がお分かりでしたら、お教え下さい。

1355 名前:鎌倉とんぼ :06/03/20(月) 04:36 (Re: 無題) 
>  鎌倉とんぼ様のNo577(01/07/31)の中に、道真公の三男 兼茂は遠江に配流された。とあります史料名がお分かりでしたら、お教え下さい。

 地元の郷土研究家などのお話しですから、詳しくは北野天満宮や
地元の教育関係にお尋ね下さい。貴兄のお探しの文書などがあるか
も知れませんし、伝承をまとめたモノもあるかも知れません。

1356 名前:t-kimura :06/03/20(月) 13:52 (無題) 
鎌倉とんぼ 様
 早速のご返事ありがとうございました。実は 2月の初めに いくつかのところへ 質問してみました。

 大宰府天満宮 「兼茂公は、飛騨権掾になられて、のちに常陸介など         をなさったようである。これ以上のことは、不明で         す。ただ、道真〜泉樹の系図は、尊卑分脈で確かだ         と考えられます。」
 高山市郷土館 「延長二年大和守に任ぜられて、飛騨を去った。とい
         ことまで判りますが、飛騨での足跡、その後の足跡         等はわかりません。」
 茨城県立歴史館「兼茂の常陸における足跡は調べた限りではありませ         ん。常陸の国司であったことは間違いないようです         が、遥任国司で京都にあり、目代を派遣していたか         もしれません。」
 奈良県(大和守)のあるところへ 尋ねてみましたが、ご返事をいた だけないままとなっています。私も県立図書館等でもう少し 調べて みようと思います。 どうも いろいろとありがとうございました。

1357 名前:鎌倉とんぼ :06/03/20(月) 19:00 (Re: 無題) 
t-kimuraさん

あまり お役に立てなくて申し訳ありません。
その土地の郷土史家の手許や、菩提寺などには過去帳などの資料が
残されていることがあります。

1497 名前:eno :06/11/19(日) 23:43 (泉頭四郎兵衛) 
t-kimuraさん、はじめまして。

「泉頭四郎兵衛」の情報です。
私は東京に住んでおりますが、親戚が「静岡県榛原郡川根本町千頭」に住んでおり、「泉頭四郎 兵衛」を詳しく調べております(現在も進行中)。その資料の抜粋です。

■「泉頭四郎兵衛」について
菅原道真が筑紫に配流されたおり、その子孫(泉樹)がこの里を開拓し、代々襲名して「四郎兵衛 」と称えておりました。今川氏より、二人扶持、駿河安西に郷屋敷を賜わり川根八箇村の郷司(今 の町村会長のようなもの)に任じられました(代々土地の人が郷屋敷を呼びならしたので、地名(泉 頭->千頭)になったようです)。
その後、徳川の甲斐攻めに兵糧を供し、恩賞として朱印状を賜わった。この朱印状は朝鮮使節か らの諸役を免除させたほどのものです。
その子孫の新三郎の代に、井川山論をめぐる訴訟では共同であった原田三七郎が出世欲にから れ幕府に讒言(偽って人を悪く言うこと)しました。この訴えはもとより原田三七郎が悪く、新三郎が 正しかった。しかし、全面勝訴ではなかった。六分の勝訴だったため、母の言うことにそむかず宝 永年間の初頭に家名断絶した。
以上が「泉頭四郎兵衛」についてです。

t-kimuraさん、私は「泉頭四郎兵衛」の石碑の施主のまつえいを探しております。
「泉頭四郎兵衛」をお調べの際に何か情報がございましたらお教えください。

 施主 泉澤興一様 (昭和12年大供養)

1498 名前:鎌倉とんぼ :06/11/20(月) 19:29 (Re: 泉頭四郎兵衛) 
enoさん、貴重な情報をありがとうございます。

感謝いたします。

1818 名前:yamasanae :13/01/18(金) 16:40 (菅原兼茂) 
>>1356
>  茨城県立歴史館「兼茂の常陸における足跡は調べた限りではありません。常陸の国司であったことは間違いないようですが、遥任国司で京都にあり、目代を派遣していたかもしれません。」

埼玉県史調査報告「東国八箇国国司表」(1987年 昭和62/11月、埼玉県県民部県史編さん室)に、「天慶元(938)常陸(前司)菅原兼茂 見(要略/1289)」との記載があるようです。
http://www.geocities.jp/npowaro/take-5-2.htm

1819 名前:鎌倉とんぼ :13/01/20(日) 07:40 (無題) 
yamasanaeさん、ありがとうございます。近年は埼玉県の史跡や歴史的な資料、施設に注目が集まっていますね。

1820 名前:しゃけ :13/02/28(木) 22:00 (お久しぶりです。) 
お久しぶりです。日本全国歴史的人物の墓を巡る旅の
管理人のしゃけです。お墓の定義は考えると難しい
ですよね。その方の遺骨・遺骸が眠っていることだけに
限定したとしたら、戦国時代までのお墓はほとんど対象外
になってしまいますもんね。私は供養塔でもOKとしています。
そうしないと中世のお墓巡りは成り立ちませんから。実際に
私が訪ねたお墓の中でもその人の遺骸・遺骨が埋葬されている
のは全体の1割にも満たないと思います。

1821 名前:鎌倉とんぼ :13/03/01(金) 11:17 (Re: お久しぶりです。) 
しゃけさん、こんにちは。
仰有るとおりに「墓」の定義や難しくなりました。埋葬地=墓という
概念が先行してしまって「祀り」「供養」と言う部分が希薄になってい
ます。そのために遺骨を撒くなどの散骨をすれば「墓」は不要だと言
う意識が広がりを見せてきています。日本は古代より遺骸は速やか
に自然界に戻し、その霊魂を祀るという意識が根底に流れています。
ただ、この意識も霊を認めないスタンスにあっては噛み合わない議
論になり、その理論に立てば供養も葬儀も無意味になってきます。
供養塔や供養碑なども墓に含めて問題が無いと思います。
貴兄の『日本全国歴史的人物の墓を巡る旅』は貴重な御資料だと
感服しております。大震災で東北地方の遺跡も流されたりで大きな
被害を受けておりますがご健闘をお祈りしています。

1826 名前:山石貝 :13/06/28(金) 08:22 (無題) 
昔の資料を読み返し確認していましたところ、こちらに行き着きまして菅家関連だったので幾つか記載させて頂こうと思います。
なお、メモ書き等からですので、出典等書き記してないもの、またあまり貴サイトと縁のない内容もございますのでご容赦を。

菅公の子たちですが、系図纂要では
高視 景行 菖風 滋殖 景監 寧茂 弘茂 兼茂 淳茂 淑茂
以上の順で記載いますが
長男:高視はあまり変動がないですが。
景行-太宰府天満宮摂社神子神社:二男 大生郷天満宮:三男
淳茂-出典忘:五男 出典忘:四男
兼茂-系図纂要:八男 出典忘:三男

上記で兼茂に関しては、系図纂要にて子孫の菅氏が元号・長享以降に菅三郎乃至〇〇三郎、三郎(右・左)衛門を名乗りに使うことが見受けられこれ等が、時代を下るにしたがって菅公の三男としたのか、誤解されて定着したのではと思う次第です。
猶、この兼茂の常陸介は同書に記載があり、他書(出典忘)天慶元(938)年、常陸の官物に損害があり補填すべしと、勘解由使から書状を出された記録が残っいるそうで、この書状は通例国司の任期満了後数年内に出されるもので、当時の国司の任期は6年なので、延長7(930)年清涼殿落雷事件頃〜承平7(937)年承平天慶の乱以前までは、常陸にいたものと(乱以後であれば一時対応したであろうで、乱以前)。

後ですが、鎌倉とんぼ氏も触れていらっしゃる大生郷天満宮にて
刀研石なる石碑があるそうで、その碑文が

常陸羽鳥菅原神社之移
菅原三郎景行兼茂景茂等相共移
従下総豊田郡大生郷
常陸下総菅原神社
為菅原道真郷之菩薩供養也
常陸介菅原景行所建也
 菅原三郎景行五十四才也
 菅原兼茂四十七才也
 菅原景茂三十才也
菅公墓地 移従羽鳥
定菅原景行常陸羽鳥之霊地墳墓也
延長七年二月二十五日

明治頃の解読とのこと。
碑文が事実で、延長7(929)年記載であれば
生まれが、景行875年 兼茂882年 景茂899年

お墓には関係ない内容で申し訳ありませんが、何かの足しになれば幸いです。
墓制は平安期であれば、兼家だったか道長が祖父・親の墓が何処だかわからず適当に近くの碑を拝んだ云々の故事があったように記憶し大変なことかと思いますが、労が報われますようご祈念申し上げます。

1827 名前:鎌倉とんぼ :13/06/28(金) 16:01 (ありがとうございます。) 
山石貝 さま

ご丁寧にありがとうございます。
多くの方々からご親切な情報などをいただき恐縮しております。
菅原道真公は時代とともに伝説の部分が広がって、あの世でご本人は
気恥ずかしい思いをされて居られましょうか。

題名(省略可)
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